意味のない名前はない。
名前は親から貰った最初のプレゼントだ。
そこには親の思い、願い、希望、期待、生き方、人生観、ものの見方、愛情が溢れている。
どんな人になってもらいたいか。この子が何を大切にして生きて欲しいか。そんなところが見えて来る。
『ザアカイ』ヘブライ語で「主が心を止めて下さる」と言う意味だ。
なんていい名だろう。
当時イスラエル民族はローマ帝国の属国になっていた。『王権はユダを離れず』(創世記49:10)とあるようにかろうじて自治権だけは残っていた。しかし信仰は堕落していた。
宗教指導者らは権威を振りかざし民衆を牛耳っていた。
イエス様は言われた。『律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。
彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません』(マタイ23:2-4)
そうした中、ザアカイの親は真の信仰者、残された真実の信者と言える。
ローマ帝国をぶっつぶせ!とか腕っぷしのつよい子になってほしいとか、そう願わなかった。
むしろ真実の信仰を持つ人、神様がもう一度この民を顧みて下さるようにとザアカイ「主が心を止めて下さる」という名をつけた。
ところが親の願いとは違った価値、生き方をザアカイはした。彼は取税人のかしらになった。それによって財を持つ身になった。
取税人とは民衆からローマ帝国に雇われて税を取り立てる役人だ。
『決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません』(ルカ3:13)とあるように水増しして税を取り立てた。
これでは民衆からそっぽを向かれる。取税人はユダヤ社会から追放された。
ザアカイはそうした取税人のリーダーになった。
しかし、人の魂は単純にはいかない。
ザアカイは金持ちだったが決して幸せに生きていた訳ではない。
ある時イエス様がザアカイの町をお通りになった。
彼はイエス様に思いを寄せるのだった。
このお方なら自分の生き方を変えて下さるだろうといちずの期待を寄せたのだ。
彼は小さい頃、親から聞いたメシヤ、救い主の話を覚えていたのだろう。
イエス様はやっぱり思っていた通りのお方だった。
イエス様はザアカイの家に来てくださった。彼はイエス様から罪の赦し、天の御国、永遠の命、一杯お話しを聞いただろう。
ザアカイはイエス様を信じる決心をした。彼の後半の人生はイエス様と一緒に生きた。大切に生きたと思う。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリント5:17