『イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき』(マタ2:1)
救い主イエス・キリスト様がお生まれになった頃、悲惨な出来事が起きた。
当時ユダヤを治めていたヘロデ王は王権が奪われるのを恐れて幼いイエス様を殺そうと計った。
それが失敗すると次は『ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた』
人の妬み、怒り、欲望は人を悪魔に変貌させる。
『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです』(ヤコブ4:2)
その時何人の『男の子』が犠牲になったか正確な人数は分からない。
何千人と言う学者から、ベツレヘムは小都市になるから数百人ぐらいではないかとする学者もいる。
そうであったとしても大変な犠牲には変わらない。
神様の故に犠牲なった。
亡くなった『男の子』たちは殉教者になる。
永遠のいのちを頂いて御国へ入った。
問題はこの子たちの親兄弟、家族の悲しみ、心の痛手だ。
一体何故に我が子が残虐にも殺されなければならなかったのか。
最初は何が何だか分らなかっただろう。
大変なショックだったに違いない。彼らは神を求めただろう。祈っただろう。
聖書を調べただろう。
『そのとき、エレミヤを通して言われたことが成就した。
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」』(マタ2:17,18)
「あ!これだ。幼子は.救い主の身代わりとなって殺されたのだ」
うちの子は神様の御摂理の故に犠牲になった。
神様の御救いの計画の中で私たち家族が用いられた。
それを理解した時、随分慰められただろう。心が癒されたに違いない。
33年後、イエス様は十字架で罪人の贖いの犠牲となられた。
イエスの母マリヤが生存していた事を考えるとあの時、犠牲になった『男の子』らの家族も生きていたとするのが自然だろう。
イエス様の十字架の贖いは我が子のため。私たち家族のため。
そして私自身のため。感謝したと思う。
『見よ。処女が身ごもっているそして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちとともにおられると言う意味である)』(マタイ1:23)
神様の御旨の中で生きる。
なんと幸いな生き方だろうか。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます』(マタイ11:28、29 )
メリークリスマス。