長生きしたい思いは誰もが持つ願いだろう。それでも人はいつか必ず死を迎えなければならない時が来る。更に不安な点はその日がいつなのか私たちにはわからないことだ。
聖書は教える。『すべての営みには時とさばきがある。
人に降りかかるわざわいが多いからだ。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することのできる人はいない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない』(伝道者の書8章6節―8節)
死は決して逃れられない現実という訳だ。私たちが最も知りたい自分の『死の日』が一体いつなのか全くわからない。それどころか私たちにはその日を『支配することのできる人はいない』と聖書は教える。
それは『この戦い』とあるように文字通り生死をかけた壮絶なバトルになる。更に恐ろしいことは『放免される者はいない』と言うところだ。私たちにいつか訪れる死は消滅することではない。
死は私たちの全部が消えてなくなってしまうものではない。『たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同じように』(ヤコブ書2章26節)とある。死は消えてなくなってしまうものではなく分離が正しい。
肉体との分離。世からの分離。家族、友人からの分離。この世のさまざまな関わりからの分離、仕事、お金、物質、肩書、才能、評判・・こうした諸々のことからの分離。
『母の胎から出て来たときのように、また裸でもと所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを.何一つ手に携えて行くことができない』(伝道者の書5章15)
『私たちは何一つこの世に持って来なかったし、またなに一つ持って出ることもできません』(第一テモテ6章7節)私たちがいつか必ず受け入れなければならない死になる。
嫌だ!と拒絶しても、叫んでみても『死の日』はやって来る。逃げても走っても、それでも後からついて来るのが死というものだ。
『心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか』
だったら、私たちは死を心配するよりも『死の日』のために準備するのが最善ではないか。死のために準備したことはいつか必ずその人の役に立つ。
『 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』(ルカの福音書24章46、47 節)
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書 11章25 節)