今日クリスマスを知らない人はいないだろう。でもイースターを知っている人は一体何人いるだろうか。
《町が偶像礼でいっぱい》(使徒17の16)な日本。キリスト教の嫌いな日本でも不思議とクリスマスだけは例外と見える。その頃になるとスーパーやお店の中は、もろびとこぞりてやサイレントナイトがかかっている。日本全国どこへ行ってもクリスマスなんだ。ちょっと奇妙に思うのは私だけではないだろう。
一応イエス・キリスト様のご生誕は受け入れているみたいだ。
多分、何かお目出たい気がするのだろう。だからと言って処女降誕をそのまま信じている訳ではないと私は思う。
昔から誕生の寓話ならいくつかある。かぐや姫は竹から生まれた。桃太郎は大きな桃。確か一寸ぼうしは黒豆だったと聞いた。外国には花から生まれたお姫様の話もあったと思う。いろいろある。だから《聖霊によって身重になった》(マタイ伝1の18)話もいいではないかと言うことだろう。
とにかく赤ん坊が生まれたのは目出たい話しになる。だったらたイースターはどうだろう。《キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています》(ローマ書6章9節)復活と死は切り離せない。
《私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次の事です。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと》(第一コリント15の3,4)
死と葬りはどうしたっていいものではない。クリスマスは仮に処女降誕であったとしても人が生まれたのだ。目出たい出来事なんだ。
ところがイースターは話しが違う。人が最も忌み嫌う死と葬り。やっぱりそれは簡単に受け入れる訳には行かないと思うのだろう。
クリスマスを受け入れても人は救われない。聖書は教える。《な ぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。彼に信頼する者は、失望させられることがない》(ローマ書10の9,10,11)