私と妻の伝道はトラクト配布だ。郵便受けに印刷物を入れて回る。「チラシ、勧誘物を入れないで」とか「郵便物以外はお断わり」と書いてあったら入れない。呼び鈴を鳴らして住人を玄関口迄呼び出すような失礼な事もしない。
庭いじりをする人がいたら手渡しする場合もあるが稀な事で、郵便受けに黙って配布するのが私たちの伝道だ。21世紀のネットの時代と言うのにまだそんな事をしているのかと言われそうだ。効率の悪い伝道を続けている。でもやってみるといろんな事が見えて来る。嫌な事もあるが、結構励まされる。続けてみなければ得られない学びがあるからやめる訳にはいかない。
伝道の途中、うさん臭い男が木の上から私をじっと見ていたとしよう。
私はなるべく目を合わせないようにして下を通りすぎて行くだろう。それでもまだ私を見ているなら、一歩踏み出して「キリスト教会の案内をしています。お読みください」と木の上の男にトラクトを渡す。私にできることがここまでだ。
「どうですか。降りて来て今日、私とお話ししませんか。もし良かったらご一緒に食事しませんか」なんて事を私だったら言わない。
ところがイエス様は違っていた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから』とおっしゃった。なぜ私はイエス様のようにできないのだろう。
理由は一つ。私にはイエス様のような愛が持てないからだ。イエス様の愛に触れた者は間違いなく感動する。ザアカイもその一人だ。「エ~、イエス様。俺が誰だか分かっているの❓この町の嫌われ者だよ。取税人のかしら、罪人のかしら。そんな者の家に来て交わりをしたと皆が知ったら、あなたの評判は悪くなるよ。株が下がるよ。それでもいいの」『ザアカイは、急いで降りて来て、そして、大喜びでイエスを迎えた』(ルカ19:6)
『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。』(ルカ15:7)『正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:7、8)