イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架にかけられた。
『十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください』(ルカ23:39-42)
ここからいくつかの事実が分かる。
一番目。人は死後、全てがなくなってしまうのではないこと。イエス様を信じて救われた方の犯罪人は『私を思い出してください』とあるように十字架で死んだ後に自分がどこかに行くと思っていたようだ。
聖書はこう記す。『義人も悪人も必ず復活する』(使徒24:15)
『善を行なった者は、よみがえっていのちを受け,悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです』(ヨハネ5:29)
『わたしたちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです』(ローマ14:10)
『私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります』(ローマ14:12)
私たちはこうした日がいつか『必ず』来ることを覚えて今の世を生きるがいい。
二番目。『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしともにパラダイスにいます』(ルカ23:43)
死後、私たちは何もしないで長い間じっとしている場所はない。
『きょう、わたしとともに』とイエス様が言われたように死後瞬く間に私たちの行き先が決まる。
『ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに』(ダニエル12:2)
『こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです』(マタイ25:46)。
『この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデス出苦しみながら目を上げると』(ルカ16:22,23)。
三番目。罪を悔い改めた犯罪人は救われた。
『われわれは、自分のしたことの報いを受けている』彼は罪を認めイエス様に自分の魂の行き先を委ねた。信仰を持った。
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなた、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。
『彼に信頼する者は、失望されられることがない』(ローマ10:9-11)
四番目。神様は私たちがイエス様を信じて救われることを願っておられる。
死ぬ間際にイエス様を信じて救われた犯罪人がいた。それも事実だが他方、最期の時まで『イエスに悪口を言い』自らの罪を認めようとしなかった犯罪人がいたことも本当だ。
ふたりの犯罪人は同じようにイエス様に近くにいたのにこの違いは何だろう。死後の情報と認識が間違っていたこと。
『死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い』(使徒17:32)心を堅く閉ざしていたこと。
『私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます』(マタイ11:29)
彼は神様が『すべて』(マタイ11:28)の人にご用意された救いに手を出さなかったこと。この時が最後のチャンスだったのに。
『たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない』(詩篇49:8)
神様は私たちが罪を悔い改めてイエス・キリスト様を信じて救われることを願っておられる。
『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」と言うことばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです』(第一テモテ1:15)