2016年8月

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。ヨハネ」19章30節

これは十字架の上で死なれたイエス様の最後のお言葉になる。

『完了した』とはどういうことだろう。一体何が完了したと言うのか。

 

それは今の私たちに何か意味があるのか。しばらく考えたい。

 

1番目。罪人の救いの道が『完了した』と言う事。

救いは神様がお決めになった方法がある。私たち人間が勝手に罪の赦しを決めることは出来ない。

つまり裁判官でもない者が自分で罪は赦されたと宣言しても全く意味がないのと同じだ。聖書は教える。

『私の福音によれば、神のさばきは、キリスト・イエスによって人々の隠れたことを裁かれる日に、行われるのです』(ロマ2:16)

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ロマ3:23-26)

 

二番目。私たち罪人は例外なく神が用意なさった救いを必要としている事。

『愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。』〈詩篇14:1-3〉

イエス様は私たちに向かって愛の手をさし出しておられる。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』(マタイ11:28-30)『地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。』

(イザヤ45:22)。

 

三番目。救いの道は私たちが自分で作るものではない事。

手を伸ばせばだれでも救われる。神の子イエス・キリスト様が完成なさった

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。』

(ロマ10:9-11)

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』(エペ2:8)

だからイエス様は最後におっしゃったのだ。『完了した』。

 

四番目。なぜ私たちはこの『完了した』み救いを受け取ろうとしないのか。

これは神様の愛の御手、御心、御技。私たちの本当の希望になる。

『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(ロマ8:38,39)

 

神様はあなたがイエス様を信じて命を得なさいと招いておられる。

 

 

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