人は人を救えない。人は誰もが皆罪人だから救うことができない。自分すらも救えない。
『悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。一人もいない』(ローマ人への手紙 3章11,12節)
何か良い行ないをすることで救いがあるように考える。
罪の埋め合わせができると思っている。
それは罪を過小評価していると思う。
例えが友人に嘘を言ってしまったとしよう。
後で悪かったと思って友人に訳を話して赦してもらう。友人は気持ちよく受け入れてくれた。
人ができることはここまでだろう。
しかし実際、友人の心が深く傷ついていた事実を私たちは知らない。
そうであってももう取り返しが効かない。
そればかりか嘘を聞かされた友人は別の所で別の人にその話を伝えたかも知れない。
普通、嘘や偽証は相手がえっと驚いたり、意外に思うような内容が多い。
聞かされた側には印象的で記憶に残るものになる。
どこかで話さないわけにはいかない。人の性と言うところだろう。
聞いた人がまた別の人に嘘の話をする。
もうこうなると友人に謝罪しただけでは済まない。私たちの知らない所で罪は広がって行くと言う訳だ。
それに人の心の傷を一体どう償うというのか。人の力ではできない作業になる。
聖書は教える『人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない』まして『自分の身のしろ金を神に払うことはできない』とある。
私たちの肉体はもろくて弱い。それに比べて『たましい』は永遠の存在だ。
「たましいの贖い城は、高価であり、永遠にあきらめなくてはならない』
神様は罪に苦しむ私たちのために救いの方法を備えて下さった。それがイエス・キリスト様の贖いだ。
『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。』
(ローマ人への手紙 8章3節)